モーリッツ ローゼンタール集
サロン・ド・ノアン特別企画:ショパンの孫弟子シリーズ
■「モーリッツ ローゼンタール集」
CD-s 9906.51
ポーランド、セレーヌ社(Selene)
価格:3,000円(消費税・発送手数料込)
送金手数料は別途お客様負担となります。
※このCDはショパンの祖国 ポーランドからの直輸入品です。
完売しました、誠にありがとうございました。
<曲目>
| ショパン: | ピアノ協奏曲第1番 作品11(全3楽章) |
| プレリュード 作品28-6・3・7 |
| エチュード 作品10-1・5「黒鍵」 |
| マズルカ 作品63-3 |
| マズルカ 作品67-3 |
| ワルツ 作品64-2 |
| ワルツ 遺作ホ短調 |
| ワルツ 作品42 |
| ショパン=リスト編曲: | シャンポロネーズ「私の喜び」 作品74 |
| リャードフ: | 音楽玉手箱 作品32 |
| ローゼンタール: | ヨハン シュトラウスのワルツの主題による幻想曲 |
ピアノ独奏:モーリッツ ローゼンタール(1862〜1946)
管弦楽伴奏:フリーダー ヴァイスマン指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
録音:1928〜46年(歴史的録音)
※このCDは歴史的音源のため、一部お聞き苦しい所がございますが、ご了承下さい。
リストの高弟として知られる彼は、幼少期にミクリに師事したショパンの孫弟子でもあります。
独特の情緒の連綿としたショパン、そして彼の手によるシュトラウス・パラフレーズは
往年のヴィルトゥオーゾとしての面目躍如であり、圧巻です!
1862年12月18日、ポーランドのルヴフ(当時はオーストリア領レンベルク。現在はウクライナ
共和国リヴォフ)に生まれた。父親は現地中等学校の外国語の教師であった。
8歳の時、ガロートに就いてピアノを学び始めて急速な成長を示した。2年後10歳の時から、現地
レンベルク(ルヴフ)音楽院の院長であり、ショパンの愛弟子カロル ミクリに師事して成長を続け、
1874年12歳の時、ルヴフにてショパンの“2台のピアノの為のロンドハ短調”を彼の師、ミクリと協演してデビューし、更に同年11月9日と11日にクラクフでも公開演奏を行った。
1875年、家族でウィーンへ引越して、当地でリストとタウジッヒの著名な弟子
ラファエル ヨゼフィ(ハンガリー出身、1853〜1916)に師事して、やがて師のヨセフィの推挙で、ウィーンで正式にピアニストとしてのデビューを飾った。
彼は、このウィーンデビューを皮切りに、祖国ポーランドとルーマニアに初の演奏ツアーを行った。
そして14歳の時、ルーマニアの宮廷ピアニストの称号を得た。
彼のキャリアにおいての大きな転機は、1877年にヴァイマールを訪れ、リストに会った事であった。
彼はリストの為に、彼の超絶技巧練習曲と、彼の編曲によるシューベルト“魔王”を演奏した。
既に彼の評判を聞き及んでいたリストは、彼を弟子として迎え、無類のヴィルトゥオーゾに育て上げた。
この師弟関係は、1886年リストの死去まで続く事となった。
この間、1878年にはパリと、ペテルブルクで演奏を行い、センセーションを巻き起こした。
とりわけ、彼の演奏するチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番変ロ長調は、作曲者である
チャイコフスキー自身に強い印象を与えるに至った。
1880年12月に、ワルシャワで2回演奏会に出演したが、その後1886年まで演奏活動を休止し、
練習に励む一方、リストの勧めもあって、ウィーンでその他の教養を身につけるべく、勉学に励む事となる。
ウィーン国立ギムナジウム及びウィーン大学で哲学と美学を専攻して、双方で博士号を得た。
彼は、また言語学にも精通し、半ダース以上の外国語に堪能なほどであり、また医学にも造詣が深く、
このウィーンでの勉学は、後の彼の美学の完成に一石を投じたと思われる。
彼が演奏活動を再開したのが1886年、師のリストの死後のことである。
やがて、またたく間に彼は世界最高のヴィルトゥオーゾと謳われて、絶大な名声を博した。そして、
2年後の1888年、初めてアメリカ合衆国でコンサートツアーを行って、いずれも大成功を収めた。
現地の批評家たちも、こぞって絶賛の批評を寄せている。
このニューヨーク公演では、13歳のフリッツ クライスラー(後の大ヴァイオリニスト)とも共演した。
その後も順調にヴィルトゥオーゾの道を歩んだ彼は、ハンスリックを始めとする
高名な音楽評論家達からも絶賛の批評を受けたが、とりわけブラームスの「パガニーニ変奏曲」の演奏では、
作曲家自身からも絶賛され、また、1895年のロンドンデビューに際しては、師匠リストの
ピアノ協奏曲第1番を弾き、その時に指揮を行ったドイツの巨匠ハンス リヒターは聴衆に呼びかけた。
「紳士諸君、このピアニストの王を聴きたまえ!」
そして、たちまち大センセーションを巻き起こし、またしても絶大な名声を確立した。
ヴィルトゥオーゾとしての彼は、絶大な演奏技術と広いレパートリーを持ち、文字通りピアノの大家として君臨し続けた。
彼の芸歴は非常に長く、晩年の1940年代まで行っていたが、1930年代、ナチスの台頭によって
アメリカへ移住した。その後、彼は後進の指導にも力を注ぎ、特に友人の大ピアニスト、
ヨゼフ ホフマンの要請で、フィラデルフィアのカーティス音楽院客員教授となり、ロベルト ゴールドサンド、
チャールズ ローゼン、ホルヘ ボレット等を門下から輩出した。
そして1938年にはニューヨークにて、アメリカデビュー50周年を祝った。
最晩年、パーキンソン病を患った彼は、戦後1946年に病身を押して戦災で荒廃した祖国
ポーランドへ赴いて祖国の人々のために最後のリサイタルを行い、帰国後間もなく、
同年9月3日にニューヨークで死去した。享年83歳。
ローゼンタールは60代半ば過ぎの電気録音の時代になってからレコード録音を始めており、
その録音歴は1928年から1942年までである。詳細を挙げると次の通りである。
・1928年 ドイツ・エレクトローラ社
・1929〜1931年 ドイツ・オデオン=パーロフォン社
・1929年 アメリカ・エディソン社、電気式縦振動レコード(ダイヤモンドディスク)
・1930年 ドイツ・ウルトラフォン社
・1935〜1937年 イギリス・グラモフォン社(HMV)
・1939〜1942年 アメリカ・ビクター社(実際には未発売)
他には数少ないながらも、最近アメリカとイギリスでの放送録音が発掘され、CD復刻されている。
また、レコード録音の他に、アメリカ、アンピコ社の自動ピアノのピアノロールも残している。
(文責:松原 聡)
投稿:August 4, 2006